大阪府
大東市
出身。父親が
転勤族
であったため少年期は転居を繰り返し、
群馬県
高崎市
(1歳)→
兵庫県
高砂市
(幼稚園)→
金沢市
(小2)→高砂市(小2)→
横浜市
神奈川区
(小4)→
東京都
→
神奈川県
小田原市
(中1)→東京(中2)→
鎌倉市
と転々とした後、
東京都
に定住した。
東京都立新宿高等学校
、
立教大学法学部
卒業
[
1
]
。
1981年
4月
、ニッポン放送にアナウンサーとして入社
[
4
]
[
5
]
。
若手時代は主に深夜枠の番組を担当。『
オールナイトニッポン
』(月曜2部)を経て、アマチュアバンドブームの中『
HITACHI FAN! FUN! TODAY
』『
ぽっぷん王国
』などの音楽系番組のパーソナリティを歴任し「
うえちゃん
」の愛称で親しまれる様になる。
1987年
にスタートした
ヤマハ
主催の10代限定の音楽の祭典『
ティーンズミュージックフェスティバル
』の司会も担当していた。上柳自身、元々音楽には造詣が深く、若手時代から現在に至るまで親交を深めているミュージシャン・芸能人は数多い。また自らとスタッフで結成したバンドの歌声をラジオで披露することもあった
[
4
]
。
1986年
の数か月間、ラジオ局のアナウンサーでありながら、同じ
フジサンケイグループ
である
フジテレビ
系のテレビ番組『
夕やけニャンニャン
』(水曜日)で
MC
を務めた。同番組には同時期、
文化放送
から
フリー
に転身したばかりの
吉田照美
もMCとして出演(月曜日ほか)。フジテレビではこの他
深夜番組
『
録影館
』で、当時フジテレビの新人アナウンサーだった
中井美穂
とMCを務めている。ある回では、上柳と中井がCG合成の
温泉
で
混浴
する一幕もあった
[
4
]
。
深夜枠を外れた
1990年代
から日中の時間帯の番組を担当。
1993年
の
自民党
55年体制
崩壊時には国会担当記者、
選挙特別番組
のキャスターなども務めるなど報道畑でも研鑽を重ねた。
1994年
のオフシーズン
ナイター
枠で『
上柳昌彦の花の係長 ヨッ!お疲れさん
』がスタート。帰宅途中の中堅サラリーマンを対象とする実験的な番組で、上柳が得意とするトークと音楽を主体にしながら、ニュースやスポーツなどの情報系コンテンツとを組み合わせたスタイルであった。当初は苦戦するも、明確にターゲットを打ち出して次第に支持を集め、翌年からもオフシーズン番組として続行となる。3年目の『
うえちゃんのホッとラジオ ヨッ!お疲れさん
』で遂に同時間帯聴取率トップの座を獲得する。これは同局のオフシーズンナイター枠番組としては画期的な出来事であった。
上柳は
1997年
オフ(
1998年
春)まで『
ヨッ!お疲れさん
』のパーソナリティを務め、翌1998年オフからはパーソナリティが
松本秀夫
に交代。その後タイトルは毎年変更しながらも、番組の基本的なスタイルは
2009年
オフの『
ショウアップナイターバッテリー
』に至るまで引き継がれ続けている。
1997年1月から
2007年
9月まで、マイクネームを平仮名の「
うえやなぎ まさひこ
」としていた。一時期ひらがな表記にしていたのは、「上柳」を「
かみやなぎ
」と誤読されるケースがしばしば発生するなどしたことから。
1996年
の『
ラジオ・チャリティー・ミュージックソン
』で司会を務めた(当時)当時
SMAP
の
中居正広
から中継先の上柳に向かって「
かみやなぎ
さ〜ん!」「
うえすぎ
さ〜ん!」と呼びかけられたことが決定打となり、1997年1月の『うえちゃんのほっとラジオ ヨッ!お疲れさん』から、新聞のラジオ欄には原則
[
注 1
]
平仮名で表記されるようになった。なお、この27年後の2023年12月に放送の『ミュージックソン』において、上柳が
乃木坂46
の
久保史緒里
のパートナーを務めるべく入った25日の5時台にて、中継に出ていた井上和・一ノ瀬美空からこのとき同様の「
うえすぎ
さ〜ん!」と呼びかけられる件が起き、慣れっこなのか「まぁいいですけど、
うえやなぎ
です!」と返答した。
1998年春、
テリー伊藤
がパーソナリティを務める午後の生ワイド番組『
のってけテリー!渚の青春花吹雪
』の
テコ入れ
策として白羽の矢が立ち、テリーとのコンビによる『
テリーとうえちゃんのってけラジオ
』が
3月30日
にスタートした。当時の昼間時間帯の番組としては珍しい、男性コンビによるワイド番組。「得意先回りの営業マンが、営業車で、缶コーヒー片手に聞くラジオ」をコンセプトに、苦戦しつつ人気投稿コーナーを企画するなど序々に固定リスナーを確保。
テリー発案の企画「
ジャイアンツ
優勝ちょうちん行列」時に時間帯聴取率トップの座を奪取するなどし、結局上柳は
2002年
9月27日まで4年半の間、パーソナリティを務め上げた。
『のってけラジオ』降板後、当時ニッポン放送は、かつて平日午前帯の生ワイド枠で人気を博した長寿番組『
玉置宏の笑顔でこんにちは!
』が終了して以降、主なリスナー層だった高齢者層の他局への流出が大きく響き、
加藤茶
や
山田邦子
といったタレント起用による新規リスナー層の開拓も不発に終わるなど聴取率改善策に長らく苦慮しており、そのテコ入れ策として上柳に同枠が託された。
こうして『
山田邦子ワンダフルモーニング
』の後を受け、2002年9月30日『
うえやなぎまさひこのサプライズ!
』がスタート。深夜放送時代に長らく経験してきた、男一人だけのワンマンパーソナリティ形式の番組は、
朝ワイド
としては異色の存在だったが、固定リスナーを得るなど聴取率も安定した。特に、全国各地の心温まるエピソードを取り上げる「10時のちょっといい話」のコーナーから生まれた書籍『涙があふれて心が温かくなる話』シリーズは、第1弾『車いすのパティシエ』が約10万部のベストセラーとなったのに始まり
[
6
]
、その後も『母ちゃんダンプ』『80点コロッケ』がベストセラーとなるなど話題を呼んだ
[
7
]
。
一方で
2005年
以降、番組内容の
マンネリ
化が顕著となって聴取率は横ばいをたどり始めた。
そこで番組では
2006年
から、金曜日のみ番組構成を変更して「フライデースペシャル」としたり、アナウンサーの
新保友映
が担当する中継コーナーを設けたり、かつて『オールナイトニッポン』時代に演じたエロティックなキャラクター「
うなぎまさこ
」を登場させるなど思い切ったリニューアル策が採られた
[
8
]
。結局『サプライズ!』は2007年9月28日をもって終了した。
2007年10月1日『
上柳昌彦のお早うGoodDay!
』がスタートした。報道番組の経験こそあるものの、専らトーク主体の番組を中心に担当してきた上柳。それだけに番組開始当初は試行錯誤の連続だったが、自らのスタイルを徐々に構築していった。『サプライズ!』の人気コーナー「10時のちょっといい話」も「8時のGood Story」として引き継がれた
[
注 2
]
。これを機に名前の表記を漢字に戻した。また
2008年
10月4日
から2009年
3月28日
まで、ナイターオフ期間の番組『
上柳昌彦 土曜日のうなぎ
』を担当。“街歩き”を主体にした番組で、上柳が土曜日の夜の街をぶらりと歩きながら、街の人々や風景とふれあいを広げてゆく様子を生中継で伝える独特のスタイルが一部で話題を呼んだ。
この間、
2004年
5月、『うえやなぎまさひこのサプライズ!』の功績が認められ第41回
ギャラクシー賞
のDJパーソナリティ賞を受賞した
[
9
]
。
2010年
6月25日、『お早うGoodDay!』終了。代わって
6月28日
から、平日午後のワイド枠『
上柳昌彦 ごごばん!
』のパーソナリティを務めた。のちに『ごごばん!』は金曜に縮小となり、その傍らで『
ショウアップナイター
』日曜日のスタジオ担当やナイターオフ期の『
今夜もオトパラ!
』(
2014年
、15年度)を担当。
2015年
4月3日から、『ごごばん!』後継ぎ番組である『
金曜ブラボー。
』(
2018年
9月まで)、
2016年
3月28日から早朝番組である『
上柳昌彦 あさぼらけ
』を担当。
前述の防災パーソナリティも務めており、『サプライズ!』時代には毎年9月1日の「
防災の日
」と1月17日の「
防災とボランティアの日
」の年2回放送される『
ラジオ災害情報交差点
』のパーソナリティリレーにニッポン放送担当として出演し、首都圏の各ラジオ局はもとより、
NHKラジオ第1放送
でも声を聴く事ができた。現在も担当番組やスポット枠の『防災ひとくちメモ』で災害対策や心がけ、
緊急地震速報
を聴いた際の対応方法などをレクチャーしている。
2011年
3月11日の
東北地方太平洋沖地震
(
東日本大震災
)は、折しも『ごごばん!』放送中の午後2時46分頃に発生した。上柳らはスタジオで最大震度5強の地震を感じつつも、リスナーに対し落ち着いた口調で地震に対する対応策などを呼びかけていた
[
10
]
。
1995年
には
渡辺美里
の西武スタジアムライブ『She loves you 1995 Summer 10th Anniversary』(於・西武ライオンズ球場、現・
西武ドーム
)のナビゲーターを務めた。渡辺は上柳と親交が深いアーティストの一人であり、ニッポン放送がライブに協賛していた縁もあって実現した。この模様は
WOWOW
でも生放送された。また映画の出演経験もあり、
サザンオールスターズ
・
桑田佳祐
監督の映画『
稲村ジェーン
』の他、『
サラリーマン専科
』にも
居酒屋
のおやじ役として出演している。
2008年9月に、「国際パフォーマンス学会第26回大会」において、2008年度ベストパフォーマー賞を受賞した
[
11
]
。
私生活では二度
結婚
。最初の妻と新婚旅行先の
エジプト
から帰国すると年号が変わっていて、
成田空港
で二人で顔を見合わせて唖然としたと語ったことがある
[
12
]
。
現在の妻との間に2人の子供(
2001年
生まれの長女と
2003年
生まれの長男)がいる
[
13
]
[
14
]
。
読書、音楽、映画などといった定番の趣味以外に、
落語
や
漫才
、ラジオ聴取なども好む
[
15
]
。
高田文夫
や、後述する
笑福亭鶴瓶
との親交はこの趣味によるところが大きい
[
16
]
。
古地図収集や博物館・美術館めぐりなどの趣味も持っており、こうした趣味の話は一旦話し出したら止まらない。また『ヨッ!お疲れさん』のエンディングでは有楽町の街中へ飛び出し、付近を走行する
東海道新幹線
「
こだま
707号」(
三島
行)の姿を、『サプライズ!』の生放送中はスタジオから見える寝台特急「
富士
」(
東京
行)の姿を、それぞれほぼ必ずと言っていい程描写していた。上柳は
鉄道ファン
を自認しているが、こうして列車の姿を放送上で伝えるのは各路線が定時で動いているかどうかを目安に、ダイヤの乱れが生じていないか確認する意味合いも含まれている。
番組内容などに合わせて話し方を使い分ける技術に長けている。『オールナイトニッポン』や『FAN! FUN! TODAY』などでは複数のキャラクターを巧妙に演じ分けるなど、終始お茶らけたハイテンションな口調で語っていた。反面『サプライズ!』『お早う!GoodDay』では、優しく語り掛けるようにストーリーを朗読する一面も見せている。また、その他の番組でも時間帯やリスナー層、コーナー内容などに合わせて話し方を微妙に使い分けている。この卓越した話術を買われ、特別番組のパーソナリティやナビゲーター、キャスターなどを務めたり、レギュラー番組に於いても何らかの緊急事態があった場合には代役パーソナリティを務めたりする機会が多く、かつ期待に十二分に応え得る技量を有することから「エヴリタイム・エヴリバディOKのうえちゃん」とも呼ばれる
[
4
]
。
2017年
8月31日を以てニッポン放送を
定年退職
。9月よりグループ会社に籍を置き、退職時点で担当していた番組へ出演を続けている
[
17
]
。
その一方で、定年前最後の健康診断で、初期の
前立腺がん
に罹患していることが判明。退職後の12月には、番組出演の合間を縫う格好でがん細胞の切除手術を受けた。
2018年
、初の著書『定年ラジオ』(
三才ブックス
)を刊行。
2022年
10月4日、激しい頭痛が続くため病院で検査を受けたところ「下垂体腺腫」が判明したことを公表
[
18
]
。同月12日から同月下旬まで入院し、手術を受け休養。11月1日の『あさぼらけ』で突如乱入し
[
18
]
、翌日から正式に復帰した。
2024年
1月18日に喉に不調を覚え、19日朝には酷く枯れた声になったため、レギュラー番組『あさぼらけ』に急遽助っ人として
淵澤由樹
アナウンサーが入り放送を担当した
[
19
]
。病院で診察の結果、喉を酷使することは厳禁であるとドクターストップがかかり休養を余儀なくされた。2月8日に番組に復帰した
[
20
]
。
高校時代、担任の教師から「
お前、将来は何をやりたいんだ?
」と問われて返答に窮していると、「
何か、しゃべることを仕事にしろよ
」と勧められた。「
しゃべる仕事とは、どのような仕事ですか?
」と聞き返すと、教師から「
まあ、アナウンサーかな
」と返事が返ってきた
[
4
]
。
大学入学後、落語が趣味だった為、まず
落語研究会
の部室を覗いたが留守だったため放送研究会へ行き、そちらにそのまま入部した。もし落研に入っていたら少なくともアナウンサーにはならなかっただろう、とは本人の弁
[
4
]
。
大学時代、放送研究会に所属しながら、
日本テレビ
の情報番組『
タウン5
』でリポーターを務めた経験がある。この時、番組の司会者だった
福留功男
(当時、日本テレビアナウンサー)に、アナウンサーになりたい旨を伝え、福留も支援すると約束したものの、結局日本テレビのアナウンサー試験は、2次試験のカメラテストで不合格となった(その際に共に試験を受けていたのが同局に入社、『GoodDay!』でタッグを組んだ
成城大学
出身の
小倉淳
)。その後「のってけラジオ」に福留がゲストで登場した時に、当時の思い出を語った。
大学時代から「
スネークマンショー
」の大ファンで
[
21
]
、『FAN! FUN! TODAY』ではスネークマンと自分の苗字をもじって「
ウナギマン
」と名乗ってラジオコントを演じたりもしていた
[
4
]
。
大の
東京ヤクルトスワローズ
ファンとしても知られる。弱小期からの筋金入りのファンで、『オールナイトニッポン』では前週のヤクルトの戦績を振り返るのが恒例化していた。ニッポン放送解説者の
田尾安志
が
東北楽天ゴールデンイーグルス
の監督に決定した際にも、本人を目の前にヤクルトファンである旨を公言していた。
近年では
東京マラソン
での完走を目標に
マラソン
に挑戦。2010年2月28日の第4回では5時間45分45秒で完走。
上柳は鶴瓶の20数年来のファンである。若手時代から、知人に頼んで鶴瓶がパーソナリティを務める
関西ローカル
のラジオ番組を録音してもらったり、東京では放映していない鶴瓶司会のバラエティ番組『
突然ガバチョ!
』(
毎日放送
系)を録画してもらっていたほどだった。特に『
鶴瓶・新野のぬかるみの世界
』(
ラジオ大阪
)はリアルタイムで聴いていた程のコアなファン(いわゆる“ぬかる民”)で、番組でマスコミ関係者のリスナーがいるかいないかを募ったところ、上柳は自ら律儀に番組宛のはがきを投函、電話出演したのをきっかけに鶴瓶と意気投合、それ以来親交を深めている
[
22
]
。
鶴瓶は上柳について「現在のラジオアナウンサーで最高の人材の一人。まだフリーになっていないことが奇跡」と話術を評価している。『
笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ
』『
スジナシ
』(
CBCテレビ
)の際はナレーターとして特に上柳を指名した。
2004年、『
ラジオ・チャリティー・ミュージックソン
』で
石原さとみ
と共に司会を務めていた鶴瓶が、
萩本欽一
の「パーソナリティ自ら募金を受けに行く」という言葉を受けて「お前、出来るよな?」といって上柳に振り、台本を無視して募金に出かけたきりスタジオに帰って来ず、入れ替わり立ち替わりのアシスタントのうちの8時間を担当する予定だった上柳が当時ラジオ未経験であった石原や番組全体をフォローすることとなり急遽全時間司会を代行した。この時、12月24日の『サプライズ!』から、24時間の『ミュージックソン』、25日正午からの『ありがとうミュージックソン』、そして数時間休んだ後に25日夕方の『涙の電話リクエスト』まで約32時間、ほぼ休みなしで放送に出ずっぱりとなった。さらに翌日にイベントの司会もあり、相当参ったと語った
[
23
]
。この影響でその後3年間、体調不良に悩まされたと『サプライズ!』内で上柳が冗談交じりに語り、それに対して鶴瓶は『日曜日のそれ』で上柳のアナウンサーとしての技量を褒め、『ミュージックソン』については申し訳なかったと語った。
『サプライズ!』内のコーナー対談で、上柳の発案で鶴瓶と2人で立ち漫才形式で収録した。鶴瓶は「心底驚いた。面白いこと考えつくヤツやなー」と上柳を評価している。これが後に
MBSラジオ
の『
ヤンタン・立つラジオ
』として生かされることとなった。2007年5月29日の『サプライズ!』にて鶴瓶がゲストとして生出演した際にこれを再現している。
また上柳は、鶴瓶が主宰する落語会にも演者として起用された経験があり、2007年11月の落語会『鶴瓶のらくだ』(
京都南座
)では前半のトークとメインの劇中劇に出演した。上柳は「最初、鶴瓶さんから“手伝ってくれ”ってオファーがあった時には僕の番組で紹介したり、ナレーションをしたりするのかと思ったら“舞台に立ってくれ”と言われてびっくりした。舞台に日に2回出ながら大阪から(『お早うGoodDay!』を)放送するという凄い状況になっちゃったんです」と証言している。上柳は当時『お早うGoodDay!』が開始した直後で、不慣れな報道番組の進行に試行錯誤の日々を送っていたが、この『鶴瓶のらくだ』で何かと苦心したのがきっかけで「全部ばっちり準備して物事に臨むのは所詮無理だと悟ったら、その時に初めてフッと肩の力が抜けて、番組でもコメンテーターの方に素直に質問できるようになった。それから放送がちょっと変わったんじゃないかと思います」と振り返っている。
『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』では、「体調が悪い鶴瓶の負担を減らすため」「たまたま通りがかったから」「収録時にちょうど当直勤務だったから」などの理由で度々ゲストとして呼ばれ、2015年からアシスタント的立場として毎週出演。
1983年
12月29日の『
谷山浩子のオールナイトニッポン
』に登場。その日は、六本木から忘年会をオンエアしており、お酒を飲んで気分の良くなった上柳は、生放送中にもかかわらず「浩子さんには、
おまんこ
、無いんです」と発言。その番組内で上柳は、当時同番組ではがき整理のアルバイトをしていた(後に、上柳の妻となった)山崎えりこ(通称「うさぎちゃん」)と結婚式ごっこをさせられた
[
24
]
。
1983年4月から
1986年
3月まで『オールナイトニッポン』月曜2部を担当。この頃のエピソードは数多い。
-
番組開始時には3時の時報と共に、上柳が自らボーカルを務めたオリジナルの
ジングル
が流されていた。このジングルには「マサヒコ ウエヤナギ は これでもアナウンサー」の一節があった。オープニングテーマは
ビートルズ
『
A Hard Day's Night
』のInstant Funkによるカバーバージョンを編集して使用していた。これは前述『突然ガバチョ!』オープニングテーマが『A Hard Day's Night』であったことに因んでおり、鶴瓶ファンの上柳なりのオマージュが込められていた。またタイトルコールは、開始当初は上柳が生で怒鳴っていたが、後年は
相模湖ピクニックランド
のリスナーイベントでファンと共に怒鳴ったものを使用していた。このタイトルコール収録の際、悪乗りしたリスナー1名がどさくさに紛れて「
上柳昌彦のバカヤロー!!
」と叫ぶハプニングがあったが、これがOKテイクとなり、上柳が降板するまでこのタイトルコールが使用されていた。
-
エンディングテーマは当時の2部他曜日と同様『
ビター・スウィート・サンバ
』を使用していたが、演奏後に10秒間、エンディングの一言コーナーが設けられていた。この10秒間を利用して、上柳がその日の番組内容に沿ったボヤキや小言を絶叫していた。
-
ニッポン放送社員の担当曜日で、リスナーからは同局のアナウンサーに関するネタがしばしば寄せられていた。はがきを寄せたリスナーのペンネームが「
くり万太郎
、早く
免許
を取れ!!」だったことに大ウケした上柳は「あの人は気が短いから、教習中に教官と口喧嘩しそうなんだよなぁ」と話をさらに広げていた
[
25
]
。
-
1983年12月、オープンしたばかりの
新宿ワシントンホテル
のPRを兼ねて最上階のスイートルームを借り切り、生放送を敢行した。放送中に睡魔に襲われかかった上柳は「新宿ワシントンの近所に住んでいてこの放送を聴いてる人、部屋の明かりを点けたり消したりして!」と苦し紛れに告知したところ、周辺に住むリスナーが部屋の電灯を点滅させたり、暗い部屋から
懐中電灯
をくるくる回したりするなどして上柳の呼びかけに応じた。その家の数の多さに上柳は感激。後に「20年以上アナウンサーをやってきて、過去一番面白かった放送としては3本の指に入る」と振り返っている
[
5
]
。
-
漫画家
の
弓月光
からのはがきが届き、放送中に電話をつないだ所、弓月と上柳は卒業(卒園)した
幼稚園
と
小学校
が同じだったことがわかり大いに盛り上がった。上柳が「自分を漫画に出して欲しい」と頼んだところ、後日発売された弓月の漫画『
みんなあげちゃう
』に「
上柳産婦人科
」の院長として実際に登場したことがあった
[
26
]
。
-
数週間に亘って肝炎で入院したことがあり、その間の番組は一週だけのゲストで漫画家の
桂正和
と
鈴宮和由
が2時間喋って持たせたことがある。桂正和は
刑事コロンボ
日本語吹き替え版のモノマネを何度か披露していた。
-
後に『サプライズ!』の人気コーナーとなった『
うなぎまさこ
先生の乙女の診療所』の原点も、この『オールナイトニッポン』2部である。うなぎは女性リスナーと電話で対談して下ネタ絡みの悩み相談に乗り、話の中に卑猥な文言が飛び出すと「ワァ〜オ♪」などと嬌声を上げていた。さらにリスナーに受話器を局部に当てるよう指示した上で「お〜い!!」とエコー付きで絶叫し、その音の反響の度合いで局部の具合を確かめるルーティンもあるなど、『サプライズ!』よりもかなり際どい内容であった。
-
1984年
から
1985年
にかけての一時期、
片岡鶴太郎
のものまねに傾倒した時期があり、番組内に鶴太郎の持ちネタをモチーフにしたコーナーを設けていた。
-
1985年春、それまで本名を隠していた『オールナイトニッポン』のチーフアシスタントディレクター(当時)菅原のフルネームが「菅原長一郎」であることが判明。「長一郎」の名前がいたくツボにはまった上柳は番組の後半約1時間にわたって、何かにつけては「長一郎」を連呼し続け、挙げ句にエンディングの一言コーナーでも「(この春、進学や就職で)東京に出て来て辛いことがあったら、長一郎という名前を思い出してほしい…。
長一郎〜!!!
」と絶叫した。
1986年12月9日の
フライデー襲撃事件
の影響で、同週12月11日深夜『
ビートたけしのオールナイトニッポン
』が中止になった際にも臨時でパーソナリティを務め、事件についてリスナーから電話やFAXで意見を募り、報道の自由や暴力について考える内容になった。
THE ALFEE
も、上柳と公私にわたって親交が深いアーティストの一組。
1987年
8月、
静岡県
清水市
(現
静岡市
清水区
)
日本平
の
日本平ホテル
野外庭園"MUSIC LAND"で開催されたオールナイトコンサート「SUNSET-SUNRISE」では『オールナイトニッポン』の1部・2部を通した特別番組が生中継で放送された。上柳はホテルの一室からライブの模様を、事前に収録したインタビューを交えてナビゲート。ライブの休憩時間にはメンバーも生出演、上柳と4人で放送を行った。その後も、2017年8月の定年退職を機にフリーアナウンサーへ転身するまで、THE ALFEEはニッポン放送の番組で上柳と共演するたびに「
うえちゃん、まだフリーにならないの? 前からずっと『フリーになりたい、フリーになりたい』って言ってたのに・・・
」などと上柳を弄り続けていた。
1989年
1月9日深夜、
昭和天皇
の
崩御
後最初の『オールナイトニッポン』を、月曜2部の
辻仁成
と共に担当。
月曜2部の枠であったこともあり、月曜1部の『
中島みゆきのオールナイトニッポン
』にまつわるエピソードも数多い。
-
1984年6月、
中島みゆき
がコンサートツアー「明日を撃て!」千秋楽公演のため
沖縄県
沖縄市
に行くことになり、コンサート前日深夜の
6月4日
に
ラジオ沖縄
で収録したものを東京に持ち帰って東京から放送を行うことになった。これを聞きつけた上柳は、どうしても沖縄に行きたいばかりに「僕も連れて行って下さい。何でも手伝います」と必死に嘆願し、「同行取材」の名目で沖縄遠征メンバーに潜り込むことに成功、放送当日は
アシスタントディレクター
として番組制作の手伝いをし、録音したテープを東京に持って帰ることになった。だが上柳は普段は全く無縁の仕事に四苦八苦し、テープ編集は不慣れな上に音出しのタイミングも悪く、スタッフの足を引っ張ってしまうことになった。上柳は後に「一緒に仕事をしていたラジオ沖縄の人は“なんだ、ニッポン放送っつっても大したこと無ぇなぁ”って思ってたんだろうなぁ」と述懐している。
-
1985年3月11日、中島が風邪をこじらせて急遽番組を休むことになった。上柳は担当ディレクターの
入江太乃士
と2人で代打パーソナリティを務めた。当初、入江はオープニング部分だけ出演して中島の病欠について説明する予定だったが、上柳の勧めでそのまま2時間、男二人で下ネタなども織り交ぜつつ通常のコーナーを取り仕切った。番組中、入江宛てにリスナーから「イリエ オマエナンカ キライダ」と書かれた電報が届けられ
[
注 5
]
、入江が落ち込む一幕があった。また、あるリスナーからのはがきをきっかけに「自分が子供が作れる身体になったことに気付いたのはいつ?」の話題に発展し、上柳は「もしかしてそれは、オナニーをした時かな?僕は夢精ってしないんですよ」とカミングアウト。これに入江も同意したことから、思わず「二人でもったいないことしてますねぇ」と揃って苦笑し合う一幕もあった。
-
上柳はそのまま引き続き2部も担当。緊張から解き放たれたこともあってか、3時の時報明けは、断末魔の笑いを含んだ「バカ野郎!俺がやってやったよこの野郎!!」と半ば自暴自棄な第一声からスタート。自身が前週ハワイへ取材に出かけたことに因んで、1曲目には
舟木一夫
の「夢のハワイで盆踊り」を選曲。そんな上柳宛てに届いたリスナーからの電報には「ウエチヤン 4ジカン ゴクロウサマデス」と書かれていた。しかし、4時間の長丁場に心身ともに疲れ果てた上柳はエンディングで「来週はみゆきさんが来てくれないと本当に困ります!!2週続けて4時間なんてできましぇん!!」と、当時ハマっていた鶴太郎のものまねで絶叫を繰り返していた。3月18日の放送も中島が病欠したため1部のパーソナリティを構成作家の「ポチ」こと
寺崎要
と二人で務め、結局上柳は2週連続で1部・2部を通した長丁場を務め上げた。
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1985年8月12日夕刻、
日本航空123便墜落事故
が発生。ニッポン放送は臨時の報道態勢をとった。当日深夜の『オールナイトニッポン』1部は録音によって放送される予定であったが、オープニングのトークは帰省ラッシュに関する話題であった。これを気にかけた中島が入江に電話を入れ、すぐに局内で検討を進めた結果、録音された内容での放送を取り止めることになった。代わって上柳がメインキャスターとしてマイクの前に座り、午前1時から番組枠はそのままで、内容を日航機事故及び関連ニュースに絞り生放送。担当記者と共に、刻々と伝えられる情報や各所からのリポートの取りまとめ、搭乗者名簿の読み上げなどを行った。さらにそのまま当時自身が担当していた月曜2部の時間帯まで、計4時間を務め上げた。
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また普段の放送時にも、隣のスタジオで1部を終えたばかりの中島が上柳のもとへ飛び入りし、二人で数分間フリートークを繰り広げることもあった。こうして中島と上柳は『オールナイトニッポン』月曜を通して縁を深め、後に上柳が担当する『サプライズ!』内の帯コーナー『
中島みゆき ほのぼのしちゃうのね
』が誕生することとなる。
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早朝番組『あさぼらけ』を担当することになり、2018年9月まで月に一度生放送を行っていた『
中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ
』(
2013年
4月放送開始)とも隣り合わせになることから、中島にドッキリを仕掛けられそうになったり、スタジオに呼び出されて天気原稿を読んだりするなどしていた。
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その『あさぼらけ』でも聴取率調査週間の特別企画に2度出演。2度目の時は「うえちゃんと雑談がしたい」という中島の希望で通常とは違う展開で放送した。
2016年春改編で水曜深夜(木曜未明)に『
乃木坂46 新内眞衣のオールナイトニッポン0(ZERO)
』がスタートし、同時期にスタートした『あさぼらけ』が後枠に編成されたことをきっかけとして、当時
乃木坂46
に所属し、ニッポン放送の関連会社であるミックスゾーンに勤務していた
新内眞衣
との交流が始まる。2017年9月に上柳がニッポン放送を定年退職しそのままミックスゾーンに移籍したが、既に新内が社員として勤務しており、上柳から見て新内は
「年下の先輩」
という間柄になってしまった。
新内眞衣ANN0では「マイタウン天気予報」というコーナーがあり、本来『あさぼらけ』で実施する天気予報を前もって放送した後、エンディングでは「
上柳先輩、お先に失礼します。
」と上柳を弄るコメントで番組を締めていた。なお上柳弄りに関して、新内眞衣ANN0を担当した放送作家の
石川昭人
は、新内のキャラクターを際立たせるために、石川が放送作家デビューの頃から敬愛・信頼している上柳を利用した演出を行ったと語っている。
その後、新内がミックスゾーンを退社しアイドル活動に専念したり、
新内眞衣ANN0の一部昇格
などもありつつ親交は続いたが、2021年11月17日深夜の『乃木坂46ANN』で新内が乃木坂46を卒業することを発表。その際、新内が感極まって番組が進行できなくなることを危惧したスタッフは、助っ人として上柳を待機させ、「呼び鈴」を鳴らすと上柳がスタジオ内に入って来る仕掛けを用意。ところが感極まった新内が早々に呼び鈴を鳴らし
[
注 6
]
、自身の言葉で卒業を発表した後に上柳が新内に今の心境を尋ねる形式がとられた
[
32
]
[
33
]
。
2022年1月19日には新内が自身の2nd写真集の発売を記念し、ニッポン放送の各ワイド番組に生出演した際にも『
ラジオビバリー昼ズ
』
[
注 7
]
・『あさぼらけ』で上柳と共演。年齢が逆転した先輩後輩同士のトークを披露し、同時に新内から「
新内眞衣公認・親戚のおじさん
」の称号を得た
[
34
]
。
そして新内のグループ活動最終日にあたる2022年2月10日、
東京国際フォーラム
・ホールAで行われた『乃木坂46 新内眞衣卒業セレモニー』にゲスト出演。『乃木坂46ANN』での人気コーナー「妄想結婚式」の司会進行役を務め、新内の卒業に華を添えた
[
35
]
。
2011年3月11日
東北地方太平洋沖地震
(
東日本大震災
)発生時に番組を担当しており、
有楽町
のスタジオで震度5強が観測される中、リスナーへ警戒を呼び掛けた。
『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』でリポーターを務めていた頃、仮眠を取るために泊まったホテルでディレクターとラジオカーのドライバーの3人で酒盛りをした後、床に就いた。ところが、酔いが回ったせいもあって揃って寝坊してしまい、2日目の朝、リポート担当の時間に間に合わなくなってしまった。結局2時間遅れで現場に到着したものの、周囲には「いやぁ〜判らなくって、ここ」と道に迷ったふりをしてやり過ごしたという。1997年『
ごきげんよう
・ゴールデンウィークトリオフェア』において懺悔告白した。後述のバツイチもこの番組で告白した。またこの件は
2019年
の『ミュージックソン』でも語られ、「今でも申し訳ないと思っている」と語った。
1982年10月に『
くるくるダイヤル ザ・ゴリラ
』の金曜日パーソナリティになったが、それから2か月もしないうちに番組が終了することを知らされる。ある日の『ザ・ゴリラ』の生放送中、ニッポン放送では録音番組の『
日立ミュージック・イン
』(22:00 - 22:30)が流れている最中に
てるてるワイド
生放送中の
吉田照美
から突然電話が入り「番組終わっちゃうんだって?」の問いかけに正直に「はい、そうなんです」と答えたが、この声がてるてるワイドの生放送に流れるという仕掛けに引っ掛かってしまった。その後ディレクターに「まだ公表してないのに何を正直に答えてるんだ!」と怒られたという
[
36
]
。
『
玉置宏の笑顔でこんにちは
』で中継リポーターを担当していた若手時代、ラジオカーで寝過ごしてしまいリポートコーナーに穴を開けたことがある。
1986年『HITACHI FAN! FUN! TODAY』に
RUN D.M.C.
がゲスト出演した際、彼らは収録予定時刻を大幅にオーバーしてニッポン放送入り。収録では上柳と共にパーソナリティを務めていた
久保田利伸
、
羽田一郎
の3人はメンバーとラップセッションを行うことになっていたが、大遅刻でさんざん待たされた上、話す英語はブロークン・イングリッシュであるため通訳もままならないほどだった。業を煮やして立腹した3人は悪乗りして、怒気を込めつつ彼らへの愚痴やボヤキをラップに乗せたところ(無論日本語で)、日本語を理解できないメンバーからは「君たちはなかなかノリがいい」と、逆にいたく気に入られた。久保田の初ライブで、上柳はスタッフと組んだバンドで前座を務めたが、曲を演奏する際「1・2・3・4・5」と、間違って「5」までカウントした。
『ぽっぷん王国』では各曜日にコーナーが設けられており、水曜日は一般楽曲をシャウトしながら熱唱する、お遊びコーナー「
ヘヴィメタ
歌謡選手権」が人気であり、リスナーのフリをしてエントリーしたデーモン小暮がザ・ドリフターズの「いい湯だな」を熱唱したこともあった(歌う前には正体を明かした)。当時、水曜日深夜は『
大槻ケンヂのオールナイトニッポン
』(1部)、『
伊集院光のオールナイトニッポン
』(2部)が編成されていたこともあり、深夜とは思えないほどの盛り上がる番組のラインナップが話題となり“バカばっかりの水曜日隊”と好意的に評されたこともある
[
37
]
。
2006年10月3日から2007年3月27日の間、『サプライズ!』火曜日で「
うなぎまさこ
先生の乙女の診療所」が約20年ぶりに復活した。うなぎは主婦リスナーの下ネタ絡みの相談に乗り、卑猥な文言が出ると「ワァ〜オ♪」などと嬌声を上げていた。2007年2月19日に、官能的な作風で知られる
作家
の
渡辺淳一
と“夢の共演”を果たしたが、終始「ワァ〜オ♪」と嬌声を上げまくるうなぎに、渡辺はただただ苦笑するばかりであった。この
うなぎまさこ
は、あくまでも上柳本人とは別人の設定になっていた。
2007年9月28日『サプライズ!』最終回で10月からの自身の番組名を発表した際、『お早うGoodDay!』ではなく、何故か『
早起きGoodDay!
』(『お早う』の前に小倉淳が担当した番組)と言い間違えてしまった。さらに、言い直しの際には『上柳昌彦のばっちりモーニングワイド・ゴーゴーゴー』とわざとボケて、パートナーだった
榊原郁恵
の笑いを誘った。
上柳が『お早うGoodDay!』を任されたのは50歳になった直後のことだった。上柳は社からの“朝のニュース・情報番組のパーソナリティ”のオファーに対して当初「何を考えているんですか」と拒絶しようとしたものの、結局受諾。その時の心境について「五十路の扉を開けた途端に運命が凄い大きな音を立てて変わっていっている感じがした」と話している。また番組草創期は試行錯誤が続き「僕は要領が悪いし学力も無い。でも、どうしても頭が良さそうに見せたいところがあるし、過去の著名なキャスターの方が乗り移ったような感覚もあった。だから最初は著名なコメンテーターの方と話す時にも、バカがばれないように無理して“ニュースキャスターでござい”っていうツラをしちゃっていた」と、その苦悩ぶりを振り返っている。だが開始1か月後、鶴瓶の落語会(
前述
)に出演したのをきっかけに発想を転換し「知らないことは(素直に)知らないと言っても決して恥じゃないし、任せるところは任せて懐に飛び込んでいくのもひとつの方法」と捉えたことで、これを境に力まず番組に臨めるようになったと話している。
『お早うGoodDay!』放送中、部下で老け顔
キャラ
が定着している
飯田浩司
を引き合いに出し「飯田アナが
生まれた
年に、僕はニッポン放送に入社したんです」と言うべきところを、間違って「飯田アナが
入社した
年に、僕はニッポン放送に入社したんです」と言ってしまった。もちろん即座に訂正したものの、その直後の『
垣花正 あなたとハッピー!
』ではパーソナリティの
垣花正
がそれをネタにして「そうじゃないかと思っていた」などと飯田をいじり、また当時中継コーナー担当の飯田本人も「同期ってことはないでしょう」と困惑していた。その飯田とは2018年4月から『あさぼらけ』と『
飯田浩司のOK! Cozy up!
』で隣り合わせとなっている。
テレビ番組でニッポン放送からの中継がある際に映り込んでいることがある。フジテレビで『ラジオチャリティ・ミュージックソン』の告知を行う時にメインパーソナリティの横に映っているのが顕著であるが、他系列局では1986年
9月15日
放送の
日本テレビ
『
歌のトップテン
』での例がある。この日出演予定の
斉藤由貴
はニッポン放送で『
斉藤由貴 ネコの手も借りたい
』の収録を行っていたため中継での出演となったが、当時同番組のディレクターとナレーションを務めていた上柳の姿が、副調整室の硝子越しに映り込んだ。この模様は2010年7月5日、CS放送の
日テレプラス
においてもそのまま再放送された。
1988年
12月21日に『
笑っていいとも!
』の「
テレフォンショッキング
」に出演した。紹介者の
小室哲哉
(
TM NETWORK
として出演)の最初の結婚式の際、司会を上柳が務めたつながり。タモリとは後に『
タモリの週刊ダイナマイク
』で共演することになる。
1989年3月31日深夜(正確な日付上は4月1日)には、当時上柳が担当していた『FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』の裏番組である
TBSラジオ
『
SURF&SNOW
』にゲスト出演を果たしている。これはこの日が
エイプリルフール
に当たることに加え、『SURF&SNOW』が月 - 金の
帯番組
なのに対し『FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』は月 - 木の帯番組(ニッポン放送のみ
[
注 8
]
)であったため、金曜日のこの日は上柳のスケジュールが空いていた偶然も重なって実現した出来事。また、このことが『
伊集院光 日曜日の秘密基地
』(TBSラジオ)内のコーナー「秘密キッチの穴」で取り上げられ、17年後の2006年
5月14日
に放送されたその解決編では上柳がゲストとして再びTBSラジオに生出演した。このような民放共同キャンペーン以外でのアナウンサーの他局出演は最近ではかなり珍しい。この時、上柳は
大沢悠里
(当時上柳が担当していた『サプライズ』の裏番組が『
大沢悠里のゆうゆうワイド
』だった)が毎日座っている椅子を教えられると椅子を押し倒した。
2006年7月24日の文化放送社屋移転の際に放送された特別番組の際、同局アナウンサーの
野村邦丸
とリスナーによる「引越ご挨拶中継」に、ニッポン放送玄関前から出演。上柳は野村とリスナーを歓迎、野村からは文化放送旧社屋のあった四谷名物の鯛焼きがプレゼントされた。
上柳が『お早うGoodDay!』を担当し始めた2007年から2009年、毎年12月から1月にかけての年末年始には、ニッポン放送と文化放送が共同で実施している「ストップ! 飲酒運転キャンペーン」で、
吉田照美
と共にイメージキャラクターを務めている(現在、文化放送側は
福井謙二
にバトンタッチしている)。キャンペーン初日には『お早うGoodDay!』と『
吉田照美 ソコダイジナトコ
』の相互乗入れ放送を実施。また期間中、両局のスポット枠では2人が「安全運転で今日もGoodDay!」「ソコダイジナトコ!」などと語る啓発メッセージも放送されていた。同キャンペーンのキャラクターは2010年から、ニッポン放送側は垣花正、文化放送側は野村邦丸に交代している。
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2007年度:2007年12月17日 - 2008年1月18日
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2008年度:2008年12月15日 - 2009年1月18日
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2009年度:2009年12月7日 - 2010年1月17日
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2013年度:2013年11月28日 - 2014年1月12日
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2014年度:2014年11月24日 - 2015年1月15日
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2014年
度は、『今夜もオトパラ!』でコンビを組む
松本秀夫
アナとのダブル担当となった
[
注 9
]
。
2008年3月21日、NHKラジオ第1放送で放送された『
いまこそ!ラジオルネサンス
』の14時台「ラジオのちから・かのうせい」では、
NHK
と在京中波民放3局の朝番組のアンカーマン・パーソナリティが共演した。NHKからは『
ラジオビタミン
』の
村上信夫
、TBSラジオからは『
おはよう一直線
』の
生島ヒロシ
、文化放送からは『
くにまるワイド ごぜんさま〜
』の野村邦丸、そしてニッポン放送からは『お早うGoodDay!』の上柳が参加。4人は
東京駅
構内の特設スタジオで、ラジオの長所や特性、今後の可能性などについてトークバトルを繰り広げた。この中で上柳はラジオで話し続ける理由について「僕は基本的に、モテたいから喋っているんじゃないかと思っている。ルックスには自信がないし、勉強もスポーツもそう得意ではないし、他に何か取り得があるわけではない。だから喋り続けるしかないんです」と語った。
2012年
10月7日、MBSラジオが関西ローカルで放送した『
おとなの駄菓子屋
』で、在阪局制作の番組へ初めて出演。「店主」(パーソナリティ)の
角淳一
(
毎日放送
出身の
フリーアナウンサー
)がプライベートで所有している音楽スタジオを
宇崎竜童
がアルバムのレコーディングで使用していたことが縁で、『ごごばん!』向けの宇崎へのインタビュー企画とともに収録した。角と上柳は同じ大阪府の出身で、この収録で初めて対面した。
2014年3月30日、MBSラジオ『おとなの駄菓子屋』に再び出演。
4日前
に角が
自著
の宣伝も兼ねて『ごごばん!』にゲスト出演しており、放送終了後のスタジオを借用して収録された。
ニッポン放送を定年退職し、フリーとなった後も事実上ニッポン放送専属状態ではあるが『
(大人の)社会科見学
』の名目でニッポン放送以外の様々な放送局に出演したり、司会を務めている。